これはつらーいってことにぶち当たってこれはつらーいって思ってて今一番疲れた顔してる。左目の下がものすごく痛いのはなに。いちばん疲れた顔が見たいってゆってたん誰の歌だった?

どんな決断をするにしても前途は多難で私が欲しいのは安心と居場所と目一杯の愛と、時々誰のために何をすればいいのかこんがらがって苦しくなるけど紐を解けば自分のためにだけ何かをしてもいいんじゃないかと思うけど1人で生きてるわけじゃないのは私も一緒で益々こんがらがってぐっちゃぐちゃだし右目の下がものすごく痛いの

よく来る夜の公園には夜は誰もいなくなって広くも狭くもなく1人で何かを考えるには素晴らしい季節だけど考えれば考えるほどに普段は解けてゆく様々がやたらとこんがらがって躓いてとてもじゃないけど歩けないってぐらいにはまさか!躓いたって振り向いたって1人で歩いてこれたのに

自分の中心に自己が散り散りにならないように働く引力があってそれを取り巻いている表層はいつも変わってゆくし、その中心の引力の働き方も少しずつ変わってゆく。芯を風に当てるように晒して生きて行きたい。私にはどうすることもできないその引力が、その変化が、そういう生き方を選んだことが、誰かを傷付け絶望させるのなら間違った生き方をしたのかと、ほんとうに責めてるのはいつもじぶんのことだ

受け入れるには時間がかかりすぎるし決断するには尚早すぎるし、正しいことが何かと自分のためにしなきゃいけないことが何かが一致しないこともあるしすることもあるし、でもいつも岐路に立ってひねもす悩み続けてあるとき突然ふと、それはバスの中だったり明け方の散歩中だったり年が明けて雪が降った寒い日だったり自転車で坂道を下る途中だったり、「こうするべきだ」とある種わけのわからない確信めいた瞬間がくる。この「私は私の運命を知っている」というような妙な感覚、この瞬間はすこぶる気持ちがいいし、それに従って後悔したことはないし従うしかないのだとおもう。

数々の思い出がいいもわるいも蘇ってくる。膨大で一瞬の何年間かの記憶、は、やはり捏造されているにしても、改竄されずはっきりと覚えているのは何度か無茶した時の感覚だ。ピンときたあの感覚。映像も言葉も歪む中鮮明に残るのはあの感覚。

すこし家を出てる。