八月だ。音楽が鳴り止んで、人生が始まる、その不可抗の予感。残された夏と遊ぼう。終わりが始まって、始まりが終わる。ほんとうにそうやって時間は流れ積み重なって二度と戻りはしないなんて知らなかったもん。でも私の頭んなかはどんなに遠く宇宙の果ての暗闇も、どんなに目の前ときに見失うほど近くにあるものの細胞のなかのひとつひとつにも、過去へも未来へも時間軸も超えてどこへでも志向していけるってそういうこと、どうせ感覚の人。
先ず一人で立つこと、歪ませないこと、正直でいること、自分らしさを厳選すること、それを大事に残すこと、見失わないこと、任せること、逃げないこと、受け入れること、向き合うこと
暫くは模索、インプットよりもアウトプットのほうが多くなり私は喋り続ける。今はべらべらといまは多すぎたっていい、そうして自然と何度も反復し続ける何かが私のほんとの、いいたいこと、きっといろんなことがクリアーになって確かになっていく。その猶予期間の夏を、忘れ得ぬひと夏を過ごしたらきっと秋がきて冬が来る。考え続けることはやめない、だけど感覚は感覚で確かだからあるところで諦めて、喋り続ける。
何も知らないし他人に不寛容なひとにはどう映るのかもそれが要するに世間一般の「あたりまえ」だってことも学んだ。
人生は岐路だらけだし不確かなことだらけ、うまくできないことだらけだし、抗えないことだらけ。しかし鞄を捨てて私の旅は続く。投げ捨てて裸足で、もう一度列車に飛び乗った列車の行く先など知ったことではないし何処だっていい。おそらく人生で自分でしたはじめての決断。よくここまで行き付いたとほめたげたいくらい!
いやいやううん、本当は理解と愛情に感謝してる。

スピード離婚が成立

何からどう書いたらいいのか分からないけど、紙に書き出したって人と何処までおしゃべりをしたってキーパンチしてなかったなって、絡まった紐を解くような作業を続けて続けて、解けてきた紐を何処に仕舞っておこう。
別れの意味など知らずに今まで生きてきていたことにすら気が付かず、はじめてその感覚や姿がはっきりとして、私は大人になるんだろうか。ずっと子供でいられたのは、なんにせよ彼のおかげだ。怖い、そう思う私を引き裂くようにそうすべきだそうするしかないのだという予感が働いて、後生遭わないだなんて、やっぱり片足が無くなったみたいで、本当に一部だったのだと、それは私も同じなの。
痕跡なんてそう簡単に消せるものじゃないだろう。物なんか全部捨てればいい、けれど、例えば唇の潤いや涙の跡や笑顔も温度も、ふとした天候の似かよりや物音によって、白い壁を見つめたまま、ドアの影からそっと隠れ出てくるだろう。だから私は全然違う方法で、信じることをやめない。何も歪ませないで。どんなに私が頑なで我儘な決断をしたとしても、ボタンを押してデリートなんて、はじめから出来っこないのだから、あるべき場所にあるべきようにしまっておくつもりだ。
あれもこれも欲しいんじゃない。ひとつだけでいい。だからそうする。
意識の粒々は拡散していく。それを拾い集めて、言葉を取り戻さなくちゃいけない。書き続けるのは、私にとって言葉だけが、対立する二つのもの、純粋さと社会性、生と死、喜びと悲しみ、まるまる引き受ける為の唯一の道具だからだ。
物語が終わるにせよ、あんなに美しく無邪気なことは二度と無いだろうし、なんて計り知れないほどの感謝だって後悔だって憎しみだって楽しさだってずっと憶えている。どんな未来にせよ、信じてるし捨てはしない。いつかまた物語の渦中で、全然違う形で線が交差するまで、私は私らしく生きていかなきゃならないし、どんなに酷く澱んだって変わらず生きるだろうと疑わずに信じる強さが必要だ。迷ったり方位を見失ったら、教わったことをあったことを思い出せるように、お互いがそうあれるとは思わないけれど、私はそうすべきだ。

信じられませんが終わった人生はまた始まってゆく。歩くんだ、今まで通り躓いて泣き喚いて振り回されて転びながらでも、軽々しく。

まだわからないこと

これはつらーいってことにぶち当たってこれはつらーいって思ってて今一番疲れた顔してる。左目の下がものすごく痛いのはなに。いちばん疲れた顔が見たいってゆってたん誰の歌だった?

どんな決断をするにしても前途は多難で私が欲しいのは安心と居場所と目一杯の愛と、時々誰のために何をすればいいのかこんがらがって苦しくなるけど紐を解けば自分のためにだけ何かをしてもいいんじゃないかと思うけど1人で生きてるわけじゃないのは私も一緒で益々こんがらがってぐっちゃぐちゃだし右目の下がものすごく痛いの

よく来る夜の公園には夜は誰もいなくなって広くも狭くもなく1人で何かを考えるには素晴らしい季節だけど考えれば考えるほどに普段は解けてゆく様々がやたらとこんがらがって躓いてとてもじゃないけど歩けないってぐらいにはまさか!躓いたって振り向いたって1人で歩いてこれたのに

自分の中心に自己が散り散りにならないように働く引力があってそれを取り巻いている表層はいつも変わってゆくし、その中心の引力の働き方も少しずつ変わってゆく。芯を風に当てるように晒して生きて行きたい。私にはどうすることもできないその引力が、その変化が、そういう生き方を選んだことが、誰かを傷付け絶望させるのなら間違った生き方をしたのかと、ほんとうに責めてるのはいつもじぶんのことだ

受け入れるには時間がかかりすぎるし決断するには尚早すぎるし、正しいことが何かと自分のためにしなきゃいけないことが何かが一致しないこともあるしすることもあるし、でもいつも岐路に立ってひねもす悩み続けてあるとき突然ふと、それはバスの中だったり明け方の散歩中だったり年が明けて雪が降った寒い日だったり自転車で坂道を下る途中だったり、「こうするべきだ」とある種わけのわからない確信めいた瞬間がくる。この「私は私の運命を知っている」というような妙な感覚、この瞬間はすこぶる気持ちがいいし、それに従って後悔したことはないし従うしかないのだとおもう。

数々の思い出がいいもわるいも蘇ってくる。膨大で一瞬の何年間かの記憶、は、やはり捏造されているにしても、改竄されずはっきりと覚えているのは何度か無茶した時の感覚だ。ピンときたあの感覚。映像も言葉も歪む中鮮明に残るのはあの感覚。

すこし家を出てる。

始発を待っている西九条のマンションの7階にて、私は泥酔したカップルがタクシーを降りて5分以上キスしているのを眺めていた。あの二人は何を思ってタクシーに乗りあの交差点で降りてキスをしていたのだろう。目が悪いので年頃がいくつぐらいの男女なのか、私にははっきりと認識はできなかったが、18、9の男女だ素敵だと思う。

マンションからは難波のビル群の赤い光も梅田のビル群の赤い光も見えて、無数の赤く光るサインや、人々の生活、垣間見える夜の情景が次々と変化を起こす。深夜といえど世の中が動き続けていて、まるで止まらない様子を目にしながら、逃げ回るのもそろそろ終わりにしようと思った。昨晩は思うところ、大人になるにあたっていかに無駄を切り捨てながら遊び続けるのか、そういう話を、よっぱらいながらもしていた時に、私は無駄を愛し続けるし、生産性や利害で人と付き合うよりも、目に見えないものわ信じる生き方しか出来ないのだなとおもった。

無数の名前も知らない人々が生きているなんてことを、すっかり忘れて、私は帰るべきところへ帰って、同時にいるべきところへ、いようと決意したような瞬間。時折何の根拠もなく瞬間的にやってくるこんな予感は、様々な要因に寄ってもたらされながら、決定打などないのだと毎回私の目を覚まさせる。毎度悲しみより快楽が勝る。

5時を過ぎたら、私は帰ったまま、戻らないだろう、その決断を一つ自然に意図せずとも降りかかってくるようなことが、生きてるってことと何が違うのだろう。朝は来ないようで、今のところ必ず来る。目を覚ましたまま迎えるのは久しぶり。